運動会=「視点を変える」挑戦=

 25年も前になります。子どもライブラリーの運動会を見た後で、保護者からお叱りをいただきました。

①「年長児(じんろく組)に教育的な演技が見られない」

 ※教育的な演技とは、マット運動やとび箱、バルーン、マーチング、和太鼓、組体操などの集団演技のことを言います。

②「年長児がスタートの笛を吹いたり、子どもを並ばせたり、道具類を運んだり、させられている。ああいう仕事は、先生や役員がするものです。子どもにしんどい仕事をさせて、先生達は怠けているのではないですか。」

 

私は、「なるほど、そう見えるんだ」と妙に納得すると、先生達は腕まくりをして、「何を呑気に構えているんですか。全然子ども達のことをわかっていないじゃないですか」と勢い込みます。

 

 25年も前のことを「なつかしいなぁ~」と思い出したのは、私達のグループの今年度新設園の先日の運動会で同じようなお叱りを聞いたからです。その園の園長は、電話で親の無理解を嘆きます。先生達はガッカリして、自分達の子どもへの思いと、ひとりひとりのがんばりや健全な育ちが支持されなかったことに落ち込んでいました。

私は、出向いて皆に話します。

「言われたことはともかく、皆さん普通の保護者ばかりですよ。だって君達の運動会は、皆さんには全くはじめてのことで、まずビックリ仰天だったのでしょう。皆さんがご存知なのは、玉入れ、つなひき、マット運動、とび箱、マーチング、和太鼓・・・の運動会ですからね。親の気持ちがわかったことは収穫です。ここからがスタートですよ。」

※親の無理解の意味は、新しいアイデアに対して、個人的、社会的な経験知としての積み重ねがなかったということです。

 ※子どもの健全な育ちの内身は、集団で教えられたことを間違えないように一緒にするというのでなく、自分で考える、自分で判断する、自分で行動する、という個人の育ちの資質の到達点のことを指します。

どんなことでもそうですが、「視点を変える」というのはむつかしいものです。私達は、子どもの立場に立ってそのことに挑戦します。運動会で言えば、誰のための何のための運動会と考えた時、従来のイメージの枠から飛び出して、まず、

①子ども中心に視点を変える。

②子どものインサイドの育ちに視点を変える。

この2点は外せません。

 

①子ども中心ということになると、私達は子どものできることについて、余計なことはしないという配慮の決心が必要です。わかっていても手を出さないという熟慮の忍耐が求められます。先生が走り回って準備して、お膳立てをして、というのが、はっきり言って一番簡単です。しかし、そこに子どもの真の姿はありません。子ども中心に視点を変えるということは、私達大人に熟慮の忍耐に届くような、子どもの育ちを公平に、客観的にきちんと把握する力が求められるということになります。

さらに、子どもが自分達で協力して、相談してできることは、責任を持ってやっていただきます。協同するとか、責任感というのは、端役のチョイ食いで身につくものではありません。全部を任せること、それが大切です。そこに自覚が生まれます。

 

②子どものインサイドの育ちに視点を変えるということは、アウトサイドに見られる結果に捉われない、結果を求めすぎないということです。「できる・できない」「皆と一緒」は、集団教育・保育において大切なことです。しかし、「本当に大切なことは、目に見えない」ものです。私達は、子どもの内面(インサイド)の育ちにこそ、興味・関心を持つべきでしょう。教育的指導は、その部分においてこそ必要なことになります。

運動会という枠組みの中で、アウトサイドを整えて、皆さんに安心していただき、子どものインサイドへの視点を移していく。ここに新しい挑戦の試みがあります。

 

 ここで宿題です。「目に見えないもの」をどうやって見たらいいのでしょう?この続きは、カナカナ学習会で丁寧にお話しします。

2018/11/07