「気分転換」
寒い朝に、木材「木っ端」を集めて焚き火をする。登園してきた子ども達が集まってくる。とても暖かい。直火の色とその熱を子ども達はあまり知らない。「火あそび」を大人は心配するが、その前に「火」を教えたい。経験させたい。「火」は力がある。意味がある。貴重な命の源のひとつだ。焚き火に対面している体の表面は、心地良くあたたかい。そして、背中は冷たい。その対比がおもしろい。子どもにとっては不思議感まんさいだ。燃え盛る火が鎮まると、「カラッケシ」ができる。これはこれで相当の熱がある。
「ヤキイモしようよ!!」と隣りで先生達が言う。焚き火を見ると、すぐに焼き芋を連想する。単純さにちょっと「ムッ」とするが、まぁ気にすることはない。確かに焚き火の焼き芋は水分が適度に飛んでホクホクと旨い。
「家のレンジでもできますよ」と言うのは、違いを知らない。便利人間の思い込み。・・・なんてことをブツクサと考えるのは、「親子ミュージカル」の制作に入ったから。
人のいないところで(しか)仕事ができない。もともと音楽は好きではない。車の中、家の中でも音楽を聴くことはまずない。何もないのがいい。子どもの声は許せる。自然の音もOK。ただし、事務所の機械音は落ち着かない。
なので、今のように親子ミュージカル制作で音楽にどっぷり浸ると、「気分転換」が必要になる。音楽が「気分転換」になるという人がいる。「う~ん」理屈はわかるが、私は聴き続けると脳が疲れる。やっぱり何も音がない方がいい。
だいたい4分くらいの曲を繰り返し聴いて、分解して、振り付けするのに、短くても3時間くらいかかる。子どもは全ての音にひとつずつ動きがないと、自信を持って動くことができない。拍子が奇数で7拍子、11拍子なんて音楽を選んだ時は、最悪の状態。時間をいくらかけても曲が分解できない。頭の中はパニックになっている。(特にトルコの曲はいけない。まず間違いなく何時間も停滞する。)
曲を聴いて、まずその場面のストーリーをつくる。それから動きを考える。子どもと大人はできることが違うので、それぞれ別に扱う。曲の中で子どもと大人がからむのが一番大変。舞台の使い方も全く異なってくる。ペーパーに何枚も書き損じができる。最後はペーパーではなく、頭の中に全ての動きとシーンが定着するまで書き続ける。
「気分転換」とは、よくできた言葉だと思う。今の私には、絶対に必要なインターバル。ただし、特別なことはしない。
「そばを食う」。カウンターに座って、じーっとしている。その日、珍しく10代の若者グループが入ってきた。若者はそばは食べない。ラーメンに行く。
頭をつき合わせてひとつのメニューを見ている。そば屋に行く年寄りはメニュー等見ない。いつも食べるものは決まっている。若者達が「バショウセット」3人分を注文する。「バショウセット」何だそれ? 私は食べたことも見たこともない。私は、680円の定食しか食べない。「バショウセット」名前が高価そうだ。
待っている間、クスクスと笑いながら何やら楽し気だ。隣のテーブルの年寄りは、ブスッとしてただひたすらそばがくるのを待っている。しゃべらない。笑わない。そして、そばを食う。やがて、だまって不愛想に出ていく。同じく食べ終えた若者グループ。割り勘の金を集めて再び笑う。
「ふーん、そうか」。そば屋にはドラマがある。ラーメン屋ではこうはいかない。ギョウザを注文するかしないかに迷い、チャーシューの大きさと枚数を数えるぐらいだ。やっぱり「気分転換」はそば屋に限る。
しかし、今の私に「気分転換」なんて全くなぐさめにもならない。帰って事務所の机の上を見ると、投げ散らかした未完のペーパーばかり。その前にドカッと腰をおろす。どんなことにもこの場所からは逃げられない。
子どもの練習が始まった。できると思っていたことができない。動きが間に合わないと音を余分に入れたのに、間に合って1小節あまる。やればやるほど修正が増えてくる。大人の振り付けより、子どもの動きの修正の方が圧倒的に多い。昼間、散々体を使って「動き」を見せたあと、ひとりでこもって修正し、次の曲を分解する。その繰り返し。やっぱり「気分転換」は必要だ。
いくつか山がある。今は最初の山。ここから3つぐらいが一番苦しい。最後の山はちょっと明るく、元気よく越えることができる。(・・・はずだ。)
親の練習は、来週(10日)から、週末には夜の父親の練習も始まる。気合を入れてやらねば。10年後、今年のじんろく組の子ども達に、私達は「永遠のキオラ」をやったよ。と誇らし気に言ってもらえるように・・・。
ストーリー。練習風景のおもしろ話は、子どもと大人の違いがよくわかる。カナカナ学習会をお楽しみに。
2020/02/15