鬼子母神
1月のカナカナ通信の続きです。
「精神の自律性」を乱し、「我欲」に捉われ子どもを食い殺すのが「鬼子母神」の世界です。
鬼子母神の物語を簡単に解説します。
昔々、子どもを500人も産んだといわれる鬼がいました。末の子どもを溺愛し、村に降りて行っては村の子どもを片端から喰らい続けていました。「これはかなわん」と、村人は観音様に助けを求めます。観音様は一計を案じ、鬼の溺愛していた末の子どもを隠してしまいます。鬼は子どもを狂ったように探しますが、見つかりません。やがて疲れ果て、子どもを失くすということがこれほど悲しいものなのかと悟ります。やがて観音様は、末の子どもを鬼に返します。子どもの存在の有難さに改心して悟りを得たその時から、鬼は鬼ではなくなり、子どもを守る守り神「鬼子母神」となりました。
現実世界に戻ります。実際に子どもを食い殺す鬼はいません。しかし、食い殺すのを「こころ」と置き換えると、鬼はすぐそばにいることに気付きます。子どもの自立を妨げ、親の思い通りに育てようとする「我欲」に捉われると、誰でも親はある日突然「鬼」に変身するということです。こわい話です。本質を言い当てているだけに余計にこわい話です。
一般的にわかりやすい過保護という言葉が、子どもの自立を妨げるという意味で使われます。「過保護」という字からは、「保護の過ぎたる行い」と読めますから、甘えさせすぎ、お世話しすぎ、「しょうがないな~ぁ」という柔らかいイメージとなります。しかし、「過保護=心を食い殺す」となると、緊張感が走ります。
いずれにしても、親の「ねがい」が暴走すると、危険領域に達して、親が鬼に姿を変えるという可能性は戒めとしたいと思います。
常に子どもの人格を認め、心と体を育てるのですが、それらは大人の支配の対象にはならないことを心に留めておきましょう。
親子ミュージカルの練習が始まりました。子ども達はいきなり大鍋の中に放り込まれてかき回されるような気分でしょう。鍋の中では「しなければならないこと」「してはいけないこと」「次にすること」「次の次にすること」が渾然一体となって渦巻いています。
舞台は音と光で構成されています。すべてにきっかけがあり、秒針で細かく展開されます。子ども達はその中でひとつひとつを自分でえらび取らねばなりません。こだわりの強い子ども、几帳面な子どもは、少しずつ遅れてずれていってしまいます。大雑把な子どもは、全体のリズム、調和をこわしてしまいます。子どもひとりひとりに課題があります。
大切なことは、自分の「できること」「できないこと」を自覚していることです。自分の課題に冷静な子どもは、前にすすめます。(それを客観性と言います)一番困るのは、自覚症状の乏しい子どもです。自意識過剰はもっと厄介です。「人を見る」「人を聞く」力の積み重ねが試されます。自らの客観性があれば、練習が足りない部分を補ってくれます。練習の意味がここにあります。私が気を付けていることは、「練習のための練習」にならないことです。単純な技術向上の練習は、子どもをうんざりさせます。自意識を広げる客観性は育ちません。
さて、誰がいつ?大鍋の中から這い出てくるか、とても楽しみです。親子ミュージカルの舞台練習は、「とんでもない」領域です。簡単に考えず、日々子どもの変化を注視しておいて下さい。
大人の出演者の特権は、指導方法と子どもの変化を身近に感じられることです。身近に共有できるのは、自分自身が同じ道を歩いているからです。ここでは客観性は邪魔になります。「やってみよう」というポジティブなひと押しが求められます。
逆に自分勝手な客観性は、過保護を呼びます。それは「鬼子母神」の鬼へと変身します。12月、1月と感覚統合の話をしました。「見る・聞く」ことへの過剰な依存が、感覚統合を断ち切ることになることを思い出して下さい。 子どもと共に演ずることの深い意味に届くような体験にしましょう。
・・・なので私は遠慮しません。「大人になってこんなに叱られたことはない」とヘコみながら、出演者はみんなおもしろがってがんばります。別次元の喜びです。出発したらなんとしても辿り着きましょう。物語はだんだんややこしくなってきました。場面練習が中心ですので、ストーリーもいまいち全体が見えてこないでしょう。手探り状態が続きます。でも心配ありません。ある日突然、パァーっと視界が開けます。「なるほど」「あぁそうだったのか」と、合点に届いた時の納得感、喜び、開放感は、たまらないです。山を越えるというのは、こういうことを言います。それまで、まだまだこれからです。皆さん、覚悟して叱られ続けて下さい。
2022/02/27