「大人の支配と子どもの戦略」
2月6日は、年度末の内科検診の日だった。園医の段先生が、成長曲線の表を見ながら、ひとりひとりに声をかける。「おおきくなったわね。」
全員検診が終わって、「やっぱりライブラリーの子どもは1歳児までみんな賢いね。ホント落ち着いてるわ。」とほめていただいた。
子どもライブラリーにはいろいろなハンディキャップを持った子どもがやってくる。mental(心)にしろ、physical(身体)にしろ、私達が今まで聞いたことのないような難病の子どももいる。「遺伝子検査がすすんでいるからね。医師も追いつかないような新しい病気が発見されます。」と教えていただいた。
しかし、検査・診断の精度が上がり、客観的な評価の確立がすすんだとしても、それで解決するわけではない。それははじまりにすぎない。その子どもをどう育てていくのか、どのような保育・教育が適切なのか、を見極めていかねばならない。それこそもっと途方もない、多種多様な作業が必要となる。ここに子どもライブラリーの30年の知見・経験の積み重ねが生かされる。本領を発揮する場面だ。
心身共にノーマルな状態であっても、子どもの育ちはみんな違う。健康であること、バランス良く育てることが、いかにむつかしいことか、まだまだ毎日のように未熟さを思い知らされる。
大人は、子どもより強い立場にいる。従って、子どもをどうしても軽く見てしまうことが多い。「指示・命令・禁止」の支配的な言葉がこの強い立場から発せられる。
また、「おとうさん、おかあさん、だいすき。」「せんせい、だいすき。」と、子どもがギュッと抱き着いてくることがある。大人はその子どもに好かれている。信頼されている。と感じられる瞬間だ。
しかし、本当か?
子どもは生きていくことに関して力無く、弱い存在だ。大人に依存して守ってもらわなければならない。「〇〇が好き」というのは、大人には心地良い言葉、仕草になるが、ちょっと冷静に考えると、それは弱い子どもが生き抜くためのひとつの戦略とも言える。(戦略という言い方は意地悪ではない。生物学的には合理的な視点のひとつだ)
子どもはどうすれば大人に守ってもらえるかをいつも考えている。それは、ひとりで生きていく力がないことの知恵のひとつだ。だから、あたりまえのように子どもを支配して、守ってくれる大人ほど、一見して子どもに好かれているように見えるものだ。(ここに子どもの生物学的なしたたかさがある)
子どもはどんな時も健気に支配者に従う。それが生きる術と心得ている。しかし、支配は気まぐれだ。自分の都合で振り回す。自分の気分で可愛がる。突き放す。遠ざける。結果として、子育てはバランスを失い、歪んでくる。
私達は、子どもが大人に依存せず、ひとりで立つことのできる力を育てなければならない。守るけれども、支配してはならない。なぜなら、支配され守ってもらう環境の中では、「自尊感情」は育たないからだ。「自立」「自信」は無理だ。
そのために、大人には ①子どもと力の差はあっても、人として対等であること ②弱き者の懸命な生き方をリスペクトする そのような清らかな精神が求められる。
「〇〇だいすき。」とベタッと甘えてくる子どもをよく見てみよう。自分のプライドを捨てて甘えてくる子どもは、その瞬間にそれを受け入れる大人に支配されることになる。その時、子どもの「自尊感情」はひどく傷ついていることを想像しよう。
そうさせているのは「誰なのか?」。
「おかあさん、おとうさん、だいすき」「せんせいだいすき」と、子どもがギュッと抱き着くことがなくてもいいではないか。むしろ、その戦略を冷静に押しもどすことのできる、懐の深い大人を目指したいと思う。
子どもはそのような大人集団の中でこそ育てたい。自分を大切に思う「自尊感情」はできる・できないの評価ではなく、子どもを取り巻く人間関係の中で育まれる。私達大人には、「自分を大切にできる」という一生の宝を子どもに授ける責任がある。
さて、のんびりとはしていられない。己の未熟さを嘆くことなく、子どもと一緒に前にすすもう。
今年もカナカナ学習会でいろいろおはなししてきたが、究極の学びは「人として子どもと対等であること」「子どもの本音に向き合い、リスペクトすること」だったと思う。その理解のための道筋を明らかにする学習会だったと考える。
園医に倣って、子どもに心からまっすぐに、「おおきくなったね。」と言えるような年度末としたい。そのためにできることをやろう。
次年度も学習会への積極的な参加を期待している。
2024/02/17