子どもの育ちの「連続性」
今年は、セミの当たり年です。朝、園の正門周辺のケヤキやモチの大木の根元に、親指大の穴をいくつも発見できます。明け方に、そこからモゾモゾと畏敬の生き物がはい出して、気に登るのを想像すると、ワクワクします。また、九州から攻めてきたクマゼミが、ここ2〜3年アブラゼミを駆逐したかのように見えたのですが、今年はアブラゼミの逆襲です。愉快です。
さて、7月のカナカナ学習会で、「5月のグループ懇談会のその後」というテーマで、Reportを頂戴しました。熱心に、それぞれのその後が書かれていました。いくつかの気付きもあったようです。
その中に、「子どもが荒れているときは、伸びている時」「調子よく安定している時は、停滞。」の意味がよくわかったとありました。それは、「子どもの育ちの連続性」に気付かれたということです。
また、「みなさんの話を聞いて、自分では何とも思っていないことや、こんなものと考えていたことに、悩んだり、質問されたりしていたので、自分はボンヤリしているなと思った」とも書かれてありました。
これも同じです。子どもの成長は、途切れることなく、連続しています。今見えていなくても、意味のあることがかくれていることは、よくあります。他のお母さん達の話を聞くことにより、そのかくれた部分に光を当てることができたということでしょう。すばらしい気付きだと思います。
目に見えないことに、真実はあります。大人は、「自分が直接関わった部分においてのみ、子どもの存在を認める」という尊大さを、時に見せることがあります。困ったことです。
大学生が、保育実習の時、子どもを見て「キャー カワイイ」「あるいてるー」と甲高い声を上げることがあります。私は、この言葉と声が苦手です。私は、学生に教えます。「子どもは、あなたが出会う前からそこにいたんだよ。そして、あなたが去ったあともそこにいる。」
子どもに謙虚であることや、子どもの人権を尊重するというのは、こういうことだと思います。
繰り返します。「2歳の時に友達とぶつかり合って、葛藤して、大人の導きの中で4歳になって、情緒の安定した子どもがいます。一方で、4歳になって、自分中心が抜け切れず、経験不足を露呈して、友達の中で自己抑制に苦しんでいる子どもがいます。」
どちらの子どもも、4歳になって急に問題が片付いたり、問題が起きたわけではありません。ひとりの子どもの育ちは、連続しています。その連続性を見通しながら、子育てを進めてください。
私はよく、「子どもはつくられる」と皆さんに話します。この「連続性」の意味を忘れた時に、「つくられる」途中のゆがみが生まれます。つまり、その時、大人は子どもに対して尊大になっているということです。
自分の子どもの育ちの連続性を、見通せる力をつけてください。グループ懇談会やカナカナ学習会での学びを、そのことに生かしてください。
レポートの中に、親の反省を込めて、書いてありました。「今気になりはじめたわが子の問題を、どうしてもっと以前に気付いてあげられなかったのだろう。」
気が付かないまま、「歪み」をつくってしまうことのないよう、一緒に子どものことを考え続けましょう。カナカナ学習会では、それを支えます。
さて、9月は、圧倒的におもしろい上半期のスライドショーからはじめます。この動画は必見です。
2013/09/06