「放っておけない」
腰を痛めて、職員の作ってくれた杖をついて、部屋の中を行ったり来たりしています。懇談会の季節、長時間座っていると、よくこうなります。(1日7時間ぐらい皆さんとお話ししました)
それでも、ねんねこ組の部屋の中で、赤ちゃんが泣きながら私に向かって両手を伸ばすと、つい抱っこしてしまいます。こりゃ腰がまずいぞと思うのですが、自分の体を引きずりながらでも、やはり子ども優先になります。主たる保育者である母親たちは、こうやって身を削って子育てをしているのでしょう。子どもを「放っておけない」というのは、どのような感覚なのか説明するのはむつかしいです。そして、いつ、どのようにその感覚を身につけるのかを考えると、とても面白いです。
先日、やはりねんねこルームでのことです。在園児の2歳の女の子が、別の男の子と、椅子の取り合いをして大泣きしています。よく見ると、よく聞くと、どうやら新入園児の3か月だけ生まれ月の遅い子どもの椅子を確保していたということらしい。「○○ちゃんの椅子やから!!」と、つかんだまま離さず、男の子と引っ張り合って、泣いているのです。
後から入園してきた同学年だけれどちょっと小さい子どもの椅子を取っておいてあげる、その場所を確保しておいてあげる、「やさしいなぁ」と思います。そのことで取り合いをして、大泣きをしているのですが、理由がわかると、やっぱり「やさしいなぁ」と思います。でも、同時に不思議にも思います。
たった2歳の子どもが、3か月だけ生まれ月の遅い子どもの椅子を確保しようとする、自分より弱い者を守ろうとする意識は、こんなに早くから身についているものなのですね。それが不思議です。その感覚は、いつ、どのように学習したのでしょう。それとも、学習以前のことなのでしょうか。
そういえば、夕方延長の部屋でみんなが騒いであそんでいる時に、抱いていた赤ちゃんがぐずるので、「これじゃ赤ちゃんが眠れないよな」とひとりごとを言っただけで、ピタリと部屋の中が静かになったということもありました。突然みんながヒソヒソ声で話し始めるのが面白くて、かわいくて・・・。「静かにしなさい!!」と大きな声を出して叱らなくても、このひとりごとの方がよほど効果的というのも面白いですね。
自分より弱い者や、より小さな者を、「放っておけない」という意識や感覚を、大切に子ども達の中に育てたいと考えます。それは、保育や教育という枠組をこえて、もっと自然に生活の中で学んでいくもののような気がします。やさしさや思いやりを立派な「行為」として教えるのは、なんか違うと思います。子どもライブラリーの子ども達を見ていると、それはピッタリとしません。人として大切なことであるにもかかわらず、意外と教えるのがむつかしい。こんなことをいっぱいいっぱい子ども達と考えたいと思います。
逆のことですが、そう考えると、「放っておける」という意識、もしくは感覚は、どのような構造になっているのでしょう。
私は「放っておける」感覚から幼児虐待が始まると考えています。殆ど毎日のように子ども虐待の悲しい事件が報道されますが、親が「放っておいた」事実に怒りさえ感じてしまいます。
勘違いのないように付け加えますが、上手にお世話できないことと、「放っておける」感覚は、別物です。上手にできないのは、スキルのことであって、あらかじめ用意されている意識や感覚とは異なると思います。
金曜日に2回ほど、高大連携企画で高校生の授業の担当をしました。幼さが目立ちます。その幼さが、スキルの未熟さではなく、「放っておけない」意識や感覚の未完成さを感じて、少しばかり心穏やかではありませんでした。未完成というのは、子どもライブラリーの2歳の子どもが持っているのに、高校生の16歳の若者が持っていない意識や感覚のことをいいます。
小さい者、弱い者を守ろうとする意識の育ちについて、大人はもう一度、考え直す必要があると思います。
2012/06/08