「ゴブリンモード」って何のこと?
昨年のカナカナ学習会で「トキ消費」「タイパ」「ファスト映画」のことをお話ししました。
新年早々、朝日新聞は「タイパの時代」を特集として掲載しています。また、年末の NHKテレビの紅白歌合戦は「トキ消費」を意識して、若者を盛り上げる工夫が際立っていました。流石に時代感覚を取り入れた演出に感心しましたが、製作者の意図やねらいが見えているだけに、薄っぺらさの印象が残りました。
「今の時代」を表現するキーワードはさまざまあっても、そのひとつひとつに高揚感はありません。むしろその仕掛けに演出者の魂胆が見えてくるばかりで、冷静になってしまいます。
子どもの教育・保育に携わる私達は、そこに巻き込まれて汲みするわけにはいきません。なぜなら、いつもおはなしするように、子どもの「成長」「発達」は何万年も不変の「系統発生」「総合発達」が基本だからです。演出の意図やねらいを持った「時代の潮流」に影響を受けて歪めることはできません。
しかし、問題があります。「子どもはひとりでは生きることはできない」ということです。人間の子どもは、一人立ちするまで心と体を主たる保育者(主に母と父)に殆ど依存して育ちます。ということは、母親・父親が時代に翻弄されることなく、子育てに健全に向き合わないと、どうしても育ちは歪んでくるということになります。
そうそう、話は変わりますが、今年の年賀状に書いた「ゴブリンモード」ですが、「それって何のこと?」と殆どの人から無視されてしまいました。
遅ればせ・・・ですが、少し解説をしておきます。
「ゴブリンモード」は、オックスフォード英語辞典の出版社が選んだ「今年2022年の単語」です。(日本で言う流行語大賞のようなものでしょうか。)
それは、「社会規範や期待を拒絶し、悪びれずに身勝手で怠惰で欲張りな行動。」を意味します。丁度コロナ禍下でのダラダラ生活。ポテチをつまみながら、散らかった部屋でT.V・P.C・スマホ等に耽る生活のイメージでしょうか。
ゴブリンは西洋の妖精・小鬼・いたずら者の象徴です。昨年の親子ミュージカルでも「ゴブリン」は出演していただきました。
絵本「かいじゅうたちのいるところ」(偕成社)で有名な、モーリス・センダックのもうひとつの目立たない地味な絵本「まどのそとのそのまたむこう」(福音館)の中に、ワラワラとゴブリンが赤ちゃんとなって登場するのが印象的です。
私は年賀状に「ゴブリンモード」を反省することから始めよう」と書きました。便利で快適な横着、怠惰な生活からの脱却の期待を込めました。
つまり、「てまひまかける」子育ての原点に還ろうということです。
子育て中の親が自分の立つ位置を見失うと、乳幼児期は発達検査に、学童期には学力考査に、子どもの育ちの客観的な証拠を求めようとします。親が我子の成長について自分の判断に自信を持ちきれないのは、今の社会の虚飾に色付けされているからでしょう。「トキ消費」「タイパ」「ファスト映画」は、いずれも仕掛けられた演出です。私達はそのことの自覚から始めたいと考えます。
最初に「子どもはひとりでは生きることができない」と書きましたが、それはよく考えると正確ではありません。子どもは大人の援助を得て「ひとりで生きることができる」存在です。あくまで育ちの主体は子どもであることを忘れないでいたいと思います。
さて、最後に今月のカナカナ通信の特集「タブレット学習」について、大切なことですのでもう一度重ねて記入しておきます。
社会問題にもなっている子ども達のタブレット類への依存の出発は「ひまつぶし」です。自分の好きなあそびや、一生懸命夢中になれることを持っている子ども、そして、そのあそびや夢中になれることの楽しさを、しっかりと経験している子どもは、タブレットへの依存はありません。
あそびを創り出す楽しさがわからない、夢中になれるものがない子どもが、「ひまつぶし」にタブレットに出会い、依存傾向を深めていきます。コロナ禍の影響下、ゴブリンモードの中にいて、自己努力も自己犠牲も求められないタブレット類は、格好の「ごまかし体験」として、子どもは取り込まれていきます。
日々、何もないところから自らの心と体を使って道具(玩具)を集めて、あそびの世界を創り出す子どものたくましい世界を侮ってはいけません。私達大人は、目に見える成果を子どもに求めるのでなく、自由な想像力を駆使する、子どものあそびの充実を応援してやらねばなりません。
「アナログを説明(証明)するためにデジタルがある」と、岡田先生が書いてくれました。見える化され、わかりやすいデジタル世界ですが、そこに実体はありません。本末転倒せぬよう、「ごまかし体験」には充分に気を付けたいと思います。
2023/01/21