CHILD LIBRARY 子どもライブラリー

「歌は世につれ・・・・・」

「歌は世につれ・・・」とはよく言ったものだと感心する。いつの時代も若者に向けて、若者が好む音楽は、「青春の光と影」。そして、映像は仮想空間。ファンタジーもどきの世界。しかし、その本質は変わることがなく、勧善微悪と成長物語。これらが繰り返される。

 

「歌が上手い」と言われる歌手をテレビで観た。彼女は持ち歌のサビや後半で「絶叫」する。こうなると歌詞が聞き取れなくなる。発音不明瞭。何を言っているのかよくわからない。ただ声量のみすごい。歌手にはそれが誇らし気なのだろう。「絶叫」はますます・・・。

自己啓発の方法として、「絶叫」は常にある。内身はともかく「叫ぶ行為」に共感する空気は、精神の解放へのあこがれの象徴のようなものだろう。

しかし、単純な「自己啓発」は「自己陶酔」の裏返しとして、化けの皮ははがれている。にもかかわらず、「絶叫」は支持を集める。そして、対極にある「自己制御」(self-registration)や「忍耐」(patient)は、省みられることがない。

「う~ん」そういう時代なのだと思う。

多くの若者が新しいヒーローを、新しい物語を、生み出すことに奔走し続け、そこに商業の魂胆が入り込んで大騒ぎを演出する。しかし、いつの時代も本質は変わらない。やはり、「青春の光と影」のちょっとしたデコレーションの違いだけ。

 

私は「変わらない」ものの価値こそ明らかにすべきではないかと考える。

孫悟空はお釈迦様の手の平で飛び続ける自分に気付き、悟りの世界を得る。

人の成長物語は、常に「変わらない」ことのへの悟り。となると、私達が子どもに期待するものの正体がうっすらと見えてくる。

そして、「育てるべきこと」は時代の空気に流されないで、「変化」にうっとりせず、「絶叫」を勘違いすることのない「精神の自律性」なのだと気が付く。

「精神の自律性」は「自己肯定感」から始まる。自分自身が正当に評価されているという確信、自信の経験が大切になる。

「正当に評価される」のは、何かができる・できないということではない。

大人はここは勘違いする。評価は、存在自体にあたたかく、投げかけられるものでなくてはならない。つまり、「生きて、存在していること」そのものに対してだ。「あなたがいるだけでうれしい」という大人の気配が子どもをどれだけ安心させることか。「うまくできなければ存在価値がない」という条件付は、子どもを苦しめる。

子どもを授かった時、親のねがいは、条件付ではなかったはずだ。それが子どもの成長と共に「ねがい」は暴走して、多くの条件を生み出していく。それは、大人の「我欲」というものだ。子どもの「自己肯定感」を大切に育てよう。生きる価値のすべての出発がここにあり、すべてはここに収束して終わる。

 

「精神の自律性」は、流されない、迷わない、競争しない、傷つけないという道徳を超えた倫理の高みに「こころ」を引き上げてくれる。子どもの一生の宝物になる。そして、それを育てるのは親として自立した精神の持ち主であるだろうあなた自身の責務である。

「・・・となると私にはちょっと・・・」と、親として自信を失くして嘆く必要はない。子どもを育てる作業は、ちゃんとごほうびを用意してくれている。 今は道の半ばだとしても、目指す目標がしっかりとしていればいい。「我欲」に振り回されて、道を見失わなければいい。「子どもと共に育つ」ということはそういうことだと思う。

「精神の自律性」を乱し、「我欲」に捉われ、子どもを食い殺すのが「鬼子母神」の本質だ。今回の親子ミュージカルの大きなテーマとなる。カナカナ学習会でそのような話をしたい。

 

今年は研究者とコラボして、「新しい教育・保育」に挑戦する。そのための理論確立とツールの選択に慎重を期したい。「自立した思考力」と「コミュニケーション能力」が目的だが、心配なことがひとつある。

自立した思考力を持ってコミュニケーションを駆使する子どもは、大人の思い通りにはならない。都合よくやりやすい子どもには収まらない。

それを承知して、親が先生が変わらなければ、子どもの大きな一歩は期待できない。そして、大人が変わるのは、想像以上にむつかしいものだ。覚悟がいる。現実問題として、これが一番厄介な気がする。

将来に向けて改革をすすめるつもりだが、大人の自己改革がなければ頓挫する。「いいトコ獲り」はできない。子どもに求めるものが大きければ大きいほど、大人の「自己制御」も必要になってくる。このあたりを両方のバランスをとりながら・・・とワクワクしてチャレンジしたいと思う。

2022/01/28