「記憶」
盆おどり会を終えて、子どもの人格形成にかかわる「記憶」について考えています。
大きな会場に設えられた子ども達の作品の数々。大勢で踊る盆おどり。家族で楽しむ夜店。はてなたまご、宝石すくい、いくらすくっても3個しかもらえないアヒルすくい、氷の固まりの浮いた冷えたラムネ(蓋をあけるのがちょっとむつかしく、楽しみ)、そしてじんろく組のアトラクション(今年はじめての皆が力を合わせてのパフォーマンス)。
夕暮れになると、8月下旬はつるべ落とし。日が落ちて涼しくなった中で、大人も子どもも入り混じって皆で踊る盆踊り。終わって帰る時のちょっとした寂しさ。にぎやかで楽しければ楽しいほど、心を取り戻すのがむつかしい祭りのあとの気分。
人格形成にかかる「良質の記憶」は、「できる」「できない」に左右されることはありません。「やさしさの華やかさ」と「孤独の落ち着き」に彩られています。子どもは、子どもの視点と子どもの時間の中で生きています。大人が与えてもうまくいかず、与えずともうまくいかないのは、大人の視点と時間で子どもを見ているからです。(カナカナ学習会6,7月の講話)
「子どもの成長を止めない」と理念を掲げて、皆さんの協力のもと、盆おどり会は終わりました。子ども達にとって、「それはどんな意味があったのか」というのは、今は私達にはわかりません。確かめることは野暮でしょう。人格形成にかかわる「記憶」というのは、いく人かに共有されて引き継がれると信じます。
「楽しかった」で終わらない共有できる「心模様」が人の間に残り続ける時にはじめて、意味を持ちます。私達はその時を待ちたいと思います。
さて、現実は・・・盆おどり会のデコレーションは、ちょうちんと地蔵と決まりました。先生達がチームになって風船をふくらませ、水糊で紙をペタペタと貼り続けて、後から風船を抜き取ります。色を塗って上下をセットして、ひとつずつ完成させました。通路の六地蔵と賽銭箱は、ちょっとした「シャレ」。「シャレ」を受け止めていただき、賽銭箱には合計2255円の御布施が入っていました。(南無阿弥陀仏)
やぐらの大竹は、書写の卒園生のお寺からいつも頂戴します。竹を横棒で組んで、それを持ち上げて・・・となかなか大掛かりな作業に、たくさんのお父さん達の力をいただきました。(感謝)
片付けも、多くの手をいただきました。夜8時、月を見ながら最後まで残ってくれた6人の父達と、「ビール飲みてぇ~」と小さな反省会。これも祭りならではのお楽しみでした。
公園を全て片付けて園にもどると、役員の皆さんが遅い夕食の最中。夜店の残りのカレーややきそばをおかわりしながら、笑い声が絶えません。(特に池田さんと振角さんはよく笑う)
「学園祭」の気分で本当に楽しかったと、異口同音の皆さん。会長だけが、いつものようにボソリと「無事終わってよかったです。」
皆さん超級に疲れただろうと思いますが、たくさんの笑い声と食欲に私達も救われました。
「子ども達のために・・・」と旗を振られて大人がいつも犠牲になるのは、子どもライブラリーの目指すところではありません。する限りは全員参加で、準備から片付けまで全部楽しんでするのが信条です。そのためには、まずひとりひとりが人任せでなく、「自分から参加する」という主体性が求められます。
お客さんのように内身だけチョイ食いする参加の仕方は、楽なようですが、人格形成にかかわる「記憶」の生産にはとても届きません。結果的に卑小な自分の人格に自らが苦しむことになります。大人にはこの点が厄介です。
「いいですね、おまつり」と、見知らぬ親子連れ。「参加できます?」「ごめんなさい、今回はコロナ禍なので当日券は用意してないんです」「あぁ、そうですよね」と、ちょうちんを見上げながら立ち去る親子を見送りました。
そうか、そういうことだったのだ。人格形成にかかわる「記憶」は、我子を授かって、育てる夏の終わり。たまたま見かけた見知らぬ園の盆おどり会に、「いいですね、おまつり。参加できます?」と声をかける。この15語にあらわれているんだ。ここに引き継がれている「記憶」がきちんと定着していることに、ジワジワと喜びというか、安心感というかが感じられました。
コロナ禍下での「盆おどり会」が、皆さんご家族の未来の「記憶」に育っていくことを願っています。
2020/09/08