「非言語的コミュニケーション」って何のこと?
Aこども園の話
「トライやるウィークで社会体験に来た中学生が、自己紹介の時緊張して言い間違えた。それを見て、聞いて、子ども達が笑った。その笑いが軽く、相手を馬鹿にしているようで、先生はとても気になった。」
Bこども園の話
「デイサービスの訪問時、お年寄に園児ひとりひとりが自分の名前を言うことになった。ひとりの子どもが緊張して言えなかった。それを他の子どもがからかって笑う。先生はとても悲しかった。」
「ふざける」「からかう」「いじわる」は、どこから生まれてくるのだろう。誰が教えるのだろう。その時子どもの気持ちはどこにあるのだろう。
答えは簡単に見つかった。全て逃避行動、回避行動と言える。相手ときちんとしたコミュニケーションができないことによる不信や不安、疑問、とまどい、すれ違い、誤解、孤独などから逃げようとする。さけようとするためにあらわれる行動パターンだろう。
それでは、きちんとしたコミュニケーションって一体何だろう。それは、相互理解ということだが、多くの人はそこに「言葉の存在」を求める。しかし、そのことが逆にコミュニケーション不成立を生み出すので、困ったことになる。
特に年齢の小さな子ども達、気持ちを表現するのが苦手な小中学生、しゃべるのが不得手な大人にとっては、言葉での伝え合いは不自由で時に苦しくなる。
だが、ちょっと考えてみよう。コミュニケーションって言葉だけとは限らないはずだ。もっと多様な方法があると思う。言葉でのコミュニケーションでない多様なコミュニケーションの世界って何を指すのだろう。
今年度4月からのカナカナ学習会は、そのことについていろいろな視点から考えてきた。今回は、言葉にならないコミュニケーションとして「非言語コミュニケーション」を考える。
このことについては、乳幼児にのみ言えることではなく、小学生、中学生、高校生、そして大人の人間関係まで、すべてあてはまる。多くの人は、「言葉」でコミュニケーションをしている。しかし、それ以上にちょっとした仕草、目の動き、顔の向き、手の使い方、体の揺れなど、非言語的コミュニケーションをしている。「言葉」よりもそれは、もっと強くその人の気持ちを表していることもあって、この伝え合いの世界はあなどれない。
「ふざける」「からかう」「いじわる」という本来のコミュニケーションから派生してきた行動は、その本来の伝え合いがうまくいかなくなっていることの証とも言える。
親が子どもを、先生が生徒を、充分に理解できていない、そして理解されない子ども達が、生徒が、その不満や孤独やわかって欲しい欲求を、いろいろな形で表しているとも考えることができる。「ふざける」「からかう」「いじわる」は、子ども達からの苦しい心の叫びなのかもしれない。
先週、夕方のお迎えの時、母親にからんで大泣きしている男の子がいた。母親も大変である。泣きたいのは母親の方かもしれない。何が起きているかというと・・・。
「親と離れる時に非常に強い不安や混乱を示す。そして、再会時には強く身体的な接触を求める。しかし、その一方で親に対して怒りを示し、激しく叩いたりする。行動が不安定で用心深く、親に執拗にくっついていようとする。」と、まあまとめると以上のようになる。
この場合も「非言語的コミュニケーション」の未達成と「言語的コミュニケーション」の未熟さが原因と考えられる。
子どもにあきれて、うんざりして、厳しく突き放すだけでは、親も子も、先生も生徒も、救われない。深く考えるのは、大人の責務でもある。
今月は、そのことからカナカナ学習会を始める。
2017/07/24