CHILD LIBRARY 子どもライブラリー

ストレスのない集団生活の秘密

1、2月と子どもの欠席が少ない。全員出席の日が何日も続く。この時期、通常であれば、流行性の疾患が目立つものだが、しかも今年はコロナ禍だ。まぁ、理由はどうあれ、子どもも先生もみんな元気というのは、有難い。安心だ。1月にもちつきもマラソン大会も行った。2月に焚火をして、焼き芋もみんなで食った。

焚火は特別だ。体の正面が熱を受けるが、背中は寒い。その日は朝からパラパラと雪。絶好の焚火日和だった。燃え盛る火を見ながら受ける熱は、まさしく「あたたかい」という言葉がピッタリくる。大人も子どもも何人も集まって、グルリと囲んで、火を見て、手をかざす。全員の視点は中心の火に定まっているが、隣りの人の気配は体に伝わってくる。あまり多くは語らない。火は変幻自在。火は饒舌。それを見ているだけで心はゆったりと満たされる。落ち着く。

そこには、「静かにしなさい」「やめなさい」「待ちなさい」「こうしなさい」という、よくありがちな子どもへ投げかけられる言葉はない。子どもは落ち着いてそこにいる。黙って静かに火を見ている。熱を受ける。心はあたたかい。焚火は囲んだ人達を寡黙にする。みんな内省する哲学者となる。

 

火が燃え尽きて「カラゲシ」(空消)となる。黒ずんだ燃えカスの下に熱がこもっているのが赤く見える。その上に、子ども達が濡れ新聞で仕込んだイモをきれいに並べる。焼き上がりを待ちながら、子ども達がそれぞれあそび始める。カラゲシの上のイモをじっと見ながら動かない子どももいる。パラパラとあそびながらみんな何となく火の落ちた焚火の周りにいる。

園庭を半分にして、背中で「ハンドラグビー」が始まった。これはけっこうおもしろい。ハンドボールとバスケットボールとラグビーを合体させたような、あそび大好き園長のオリジナルだ。「投げる」「持って走る」「ボールを奪う」「しがみつく」と、なんでもありだ。唯一足で蹴ってはいけないとルールが決められている。サッカーでよく使うゴールにボールを入れたら得点となる。ボールを抱えたまま自分が飛び込んでも OKだ。

やってみるとなかなか激しい。全身を使うので、すぐに汗ばむ。息が上がる。しかし、展開が早いのでおもしろい。ラグビーのジャッカルのように相手の抱えたボールを奪うのは醍醐味だ。3人で三角パスであっという間にゴールできると爽快な気分にもなる。つかまえ、つかまると、地面を転げまわることもある。子どもはこういう「ジャレあい」が大好きだ。子どもライブラリーらしく、いつものように先生も入って盛り上がる。ムキになってる先生の腰に子どもが抱きついて、引きずられるようにゴール目指しているのを見るのは、迫力があって愉快だ。

ワアワア、キャアキャアと騒いでいる隣で確実にイモは焼けてきた。時々ひっくり返して整えると、いい匂いもしてくる。パラパラあそんでいた子ども達が、再び回りに集まってきた。クラス毎に集まって座った。1本のサツマイモを半分に割ってフウフウ言いながら食べる。勿論、皮も全部食べる。(皮と身を一緒に食べるとムネヤケをしない)

みんなが食べ始めると、再びシーンとなる。ねんねこ組の子ども達も、フウフウとオレンジ色、黄色、時々焼きすぎて黒くなったイモを食べる。口の回りがオレンジ色、黄色、黒色に変わっていく。食べてる時は全く静かだ。みんな真剣だ。確かに焼き芋はホクホクとうまい。

 

子ども達を見ながら考える。いつも考える。朝8時から火をおこして、木っ端を燃やして焚火をする。子どもが集まってくる。ちょっと離れて砂遊びをしている子もいる。

部屋の中で残りの作業に精を出す子もいる。じんろく組はクロスステッチの最終段階、終わった子は巻き紙で数とたたかっている。登園してくる子どももいる。9時すぎ、殆どの子どもが火の回りに集まってくる。横のテーブルで焼き芋の仕込み(新聞紙を水で濡らして包み、さらにアルミホイルで包む)を手伝っている子がいる。こういう作業が好きな子はいるものだ。あっという間に70個程の準備が整う。静かに火を見ていたり、イモが焼けるのを待ったり、友達と砂遊びしたり、ハンドラグビーで大騒ぎしたり、みんな同時進行で自分のしたいことをしている。自分でえらんだことをしている。何かしている。

先生達は殆ど指図しない。禁止しない。命令しない。そして、いつもどの場所でも、その中心にいて、子どもと一緒にあそんでいる。ストレスのない集団生活というのは、こういうことを言うのだろう。だから、「自分えらべる」「自分であそべる」力が育つ。

「自分でえらぶ」ことの大切さ、その力の意義については、カナカナ学習会で何度も話した。その内身は「えらべない子どもの苦しさ、辛さ」「えらべない大人の末路」を想像すればすぐにわかる。「えらぶ」というのは、自己発見のこと、自立の進度、深度がそこにあらわれる。豊かな生活は、その自立の度合いに左右される。それを自己実現と呼ぶ。

 

大人と子どもの関係は、本当にむつかしい。大人は子どもを守り、育て、導き、指導する存在だ。しかし、子どもは守られ、育てられ、導かれ、指導されるだけの存在ではない。ここがむつかしいところだ。子どもの人格を尊重し、権利を守るということの意味と、具体的な対応は、日本の社会ではいまだはっきりしていない。形はととのっているが、形而下(!!)的な内容ばかりで本質には届いていない。

日々実践する私達の課題だ。日々子どもを育てる親の責務だ。子どもを自分でえらべるように育てよう。そして、同時にそのことで責任を持つ、忍耐する、人の話を聞く、嫌なこともやってみる子どもに育てよう。なぜなら、それらなくして「えらぶ」という行為は単なる「ワガママ」にしかならないからだ。

「自己主張は自己抑制」と背中合わせ、つまりセットになっている。そう簡単に自己実現には至らない。

 

「自由と放任」は明らかに違う。自由は分別を伴う。放任は身勝手に主観に色付けされている。ストレスのない集団生活は、本来の意味での自由がそこにある。自己発見の機会にあふれている、見る、聞く、考えるという行為が自然な形で身についていく。それは、自らの客観性を生み出していく。

そして、そして、子ども達にとっては何よりも「楽しい」ことは重要だ。楽しいから生き生きする。楽しいから元気になる。子どもライブラリーが楽しいと思えるから、子ども達の欠席は少なくなっていく。1、2月は欠席がゼロに近かったと最初に書いた。その秘密はいろいろあるが、「ストレスのない集団生活」ということを最初に挙げておこう。

 

 

《余談》

親子ミュージカルの練習がいよいよ本格的に始まった。子ども達は、午前中150分の集中が求められる。大学の授業で言えば1.5コマ以上に相当する。基本的に意味のない繰り返しはしない。練習は「考える訓練」と言える。途中何度も集中力が途切れる。その瞬間は子どもによって違うが、教え続ける私にはわかる。その途切れた糸を結び直して次にすすむ。その繰り返しの中で集中への持続力は向上する。そこに指導の妙がある。

「教えられてできるようになる」舞台ではない。「誰にでもできる」ことでもない。外面的には「空間処理の能力」「集団への配慮」、内面的には「思考力」「忍耐力」等が求められる。およそ6歳の年長児には至難の領域だ。

3月の舞台練習では、つかれて上下手でウトウトしている子どもが、音が始まると飛び出していくという光景を今までに何度も見た。この時期には、「責任感」というおまけも身についている。親も子も全員で作り上げる舞台だ。自分勝手は許されない。責任感を教えることはないが、自分で気付くのがエライなぁ~と思う。

今年はまた違った味わいのある舞台になりそうだ。乞うご期待!!

2021/02/21