保育の導き手
今月号は、神戸市東灘区本山北町あすのこども園の園長 春名節子氏と、姫路市広畑区播磨灘こども園の園長 前川昌恵氏より、それぞれの園での保護者だよりの原稿を拝借しました。
2人共、子どもライブラリー出身の園長です。(春名氏は10年前、前川氏は3年前に転勤しました)テーマは違っても、子どもに対する視点がとてもよく似ています。
=まず次のページの2人の原稿を先に読んで下さい。=
ここに書かれていることを読むと、子どもに対する向き合い方が抑圧的でなく、人として対等で、思いやりがあることに安心できます。大人として、保育者として、あたりまえのようですが、このように大切にされているかどうか、疑問に思うこともあります。多くの大人が親でさえも子どもをめんどくさがっているのを聞くこと、見ることは、絶えません。子どもを対象にした仕事の小児科医、小児歯科医でさえも、自分の仕事を完結させることを優先して、子どもをなだめたり、おだてたり、おどろかせたり、すりかえたりと、子どもの人格を認めて、きちんと向き合うというより、とにかくおとなしくさせるためにその場限りの見え透いたテクニックを駆使します。
少し昔のことですが、私はニュージーランドに小学生を引率した際、ひとりの男の子が風邪をひいたので、ホームドクターを予約して連れて行ったことがあります。
ちょっと広い診察室には、ソファーセットが置いてあって、私達は案内されて座りました。やがて、普通にスーツにネクタイ姿のドクターが入って来て、すぐにその男の子に右手を差し出しました。「これは握手だよ」と教えると、彼は戸惑いながら初対面のドクターの手をそーっと握り返しました。その医者は手を握ったまま自己紹介をして、自分の名前を告げました。そして座ると、問診票を見ながらその小学生が「何故ここに連れて来られたか」を説明しました。さらに、「病気を確かめるために君の体をさわること、聴診器を胸にあてる必要があること、それはかまわないだろうか?」と、了解を求めました。
私は、「ひどくのんびりした医者だ」ぐらいにしかその時は思えませんでした。その最初の挨拶と説明は、とても大切な意味があって、そのことが医者と患者の信頼関係を築く入口なんだということには、随分あとになって気付いたものでした。(これは私にとっては恥ずかしい思い出です)
2人の園長が書いてくれました。
「別に甘い言葉で寄り添う必要はありません。一声かけて、わかるように示して、反応を待ってやるだけでいいのです。相手を尊重する対等のやり方です」(春名園長)
「どんな子どもに対しても、『必ずオムツ替えさせてね』『抱っこするよ』と。子どもを触る時に声をかけて相手の了解を得るようにしています」(前川園長)
キーワードを拾い出すと、「対等なやりとり」「了解を得る」とあります。こんなあたりまえのことが、大人社会の中では子どもに対して軽んじられているのではないかと思います。子どもの問題行動が、かくも多く、保護者を悩ませ、先生達を困らせる原因のひとつが、私達大人社会にあるというのは、痛烈な皮肉だというしかありません。
「子どもを大切に育てよう」と言われます。「やさしく寄り添う」とも言われます。しかし、「大切に」の意味を勘違いすると、過保護となり、子どもは主体性、自主性を失います。それは、自己肯定感を育てることにもなりません。(もっともこの自己肯定感にもいろいろな意味があって、一律ではありません。内容によっては自己否定感にもなってしまいます)
また、「寄り添うことで相手を傷つける」ということもあります。(「寄り添う」時と場所、方法によっては、余計なお世話になってしまうということです)
「それじゃ、一体どうすればいいのですか?」ととまどった問いが返ってきそうですが、それほどむつかしいことではありません。「子どものことは子どもに聞け!」ということです。答えは子どもが持っています。それを教えてもらえばいいのです。子どもとのかかわりで大抵の失敗は、「大人が答えを持っている」ことから始まります。
今月、子どもライブラリー出身の2人の園長の原稿を読むと、何やらなつかしい気がします。「こんな風に一緒に仕事したよな~ぁ」と、振り返りながら思い出しました。ひとりでも多くのこのような保育の本質の導き手が増えることを願っています。
2022/06/18