CHILD LIBRARY 子どもライブラリー

孤独に向き合う夏=あらためてスマホを考える=

ニュージーランド滞在中のこと。私の常宿。目の前の海の波打ち際に、大きなノーフォークパインツリー(松の一種)が立っている。そこから30mの沖合をいつも定刻に、ワイヘキ島に向かうフェリーが航行する。

私は2階のベランダから朝の冷気を感じながら、そのフェリーの時間に合わせて、友人の庭で採れたレモンの入った紅茶を飲む。到着して1週間目の夜は大嵐が吹いた。大雨だった。にもかかわらず、パインツリーはそこにある。5年前もそうだった。時を経ても何も変わらない風景が広がっている。

 

朝早くから海辺をジョギング、ウォーキングする人が往き交う。家人と走りながら大きな犬が海に飛び込んであそんでいる。これもいつもの風景だ。パインツリーはずーっとそこに泰然と立っている。彼は(彼女かもしれない)人に話しかけない。海に飛び込まない。私のようにフェリーで時間の確認をしない。勿論、スマホを見ることはない。

私は考える。彼は(彼女かもしれない)孤独に違いない。しかし、だからと言ってそれを何とかしようとはしない。ジタバタしない。回りに甘えない。スマホで情報を集めない。孤独を受け入れてそこに立っている。

 

考えれば、私がコロナ禍でこの場所に帰ってくることができなかった5年間も、彼は(彼女かもしれない)そこにずーっと立っていた。

2階のベランダで、夕べの大嵐のあとの落ち着いた凪の海を見ながら、紅茶を片手にパインツリーに対面して、私は考え続ける。

「多くの人が何故スマホを見るのか?手離せないのか?」もっともらしい理由はすぐに思い当たる。耳にタコのようにぶら下がっている。「タイパ」「コスパ」「人間関係」「情報共有」・・・。しかし本当か?と疑問に思う。

 

話は変わるが、今回のニュージーランド行には34名の小学生を引率した。2024年、この時代のことだから、カメラ機能ひとつのことを考えても「スマホ禁止」にはできない。あとは「使い方」の問題。そして、この問題は「家庭の問題」でもある。

渡航前には、「ホームステイ内では、自分のスマホは常にリビングに置いておく」という新しいルールも作った。それにもかかわらず、到着して数日後「自分の部屋でスマホばかり見ていて、ホームステイ家族と交流しないのは悲しい」と、2件の苦情(?)が入った。

あらためてスマホの使い方のルールを確認して収まったが、何故そんなことが起こったか。

答えは簡単だ。言葉が通じない環境の中でどうしていいかがわからず、がまんの限界を超えたところで、スマホを持って自分の部屋に閉じこもる・・・ということだったのだろう。気持ちは充分に理解できる。

またホームシックは「怪物」だ。随分前のことだが、見知らぬ世界の環境にいて、1週間後たまたま作ってもらったアジア産の米のおにぎりを前にして、それには手をつけることもせず、ただポロポロと涙を落としていた大人もいた。

コミュニケーションの領域において、手も足も出ないという閉塞感は想像以上だ。どの人も「私はだいじょうぶ」というのはあてにならない。その時、その場所に出会わないと、自分の実力はわからない。

 

そう、「実力」とは孤独に耐えられる耐性のことを言う。街の中、公共交通機関の中で、ひたすらスマホを触っている人達のことをもう一度思い出して欲しい。彼らは、「タイパ」「コスパ」「人間関係」「情報共有」のために、やむを得ずスマホを触っているのではなく、「ひとりで何もない」ことの孤独に耐えられない言い訳のために、あの小さな機械を動かしているだけだ。

 

「なにもしないでただそこにいるだけ」というのは、時間の無駄なのだろうか?無益なことなのだろうか?私は目の前のパインツリーに向き合って考える。やがて、赤く塗られたフェリーが岬を回って視界から消えていく。

「お~っと、もうこんな時間か!」と時計をあらためて見る。「まあいいか。」ここはニュージーランド時間だ。5分、10分くらいあくせくしない。遅れたら「アイムソーリー」とニッコリ笑えばいい。相手は「朝の紅茶がうますぎたか!」と冗談で軽く流してくれる。窮屈ではない。リラックスしている。

だから何もなくてもスマホを見る必要がない。ただボーっとしていればいい。ここでは自分自身の孤独と向き合うことができる。「実力」を蓄えることができる。あのノーフォークパインツリーのように・・・。

2024/09/11