新年「コロナ禍、雑感」
新しい空気が停滞したままの年が明けた。誰がどこでコロナ感染をしてもあたりまえのような状況の中、できれば「私」は感染を避けたい、と思う気持ちをどこに持っていったらいいのか、皆が戸惑う毎日だ。
「陽性感染者を特別視しない」しかし、「私」は陽性者にはなりたくない。ということは、心のどこかで「陽性感染者」に対する嫌悪の感情がかくれている。その感情に苦しめられながら、それでも受け入れようとする心の強さが試される。何とも厄介なことだ。
起きている事件、事故に冷静に対処することは、時間の経過と共に可能だが、コロナ禍についてはズルズルと息苦しさが続く。いつまで・・・。どこまで・・・。という色濃い不安に囲まれながらの日常の中で、光を探し求める年の初めとなった。
私は、年末年始含めて殆ど動かないようにしていた。車の走行距離はめずらしく増えていない。会議も講演会もリモートでできるようにもなった。
しかし、私は「Playing Manager」なので、直接対面、手ざわり感がなければ何も信じない、というきわめてアナログ人間だ。回りの人達にはめんどくさいだろうが、情報に振り回されないでふんばれるところは、良しとして欲しい。
1月は新しい挑戦を始めて、山や野原や川原をウロウロとしていた。自己認識として、「やはりこの方が性に合っている」とよくわかった。
冬枯れの山の中の日だまりで、温かいコーヒーを飲むのは贅沢の極みと思う。ただし、この贅沢には柔らかいソファーはない。チクチク、ゴツゴツとした折れ枝や岩の上に座る場所を確保する。お湯を沸かすのも簡単ではない。勿論、洒落たコーヒーカップなどない。下に置くとカップは斜めになるので支えがいる。日が陰るとそこだけ急に寒くなる。その度にカップを持って、体を移動させて落ち着ける場所を探す。本はなく、音もなく、スマホもない。原稿用紙もペンもない。服の汚れは気にしない。手が汚れても洗わない。水は勿体ないので、飲料にしか使わない。
夕方、猟果をぶら下げて街に戻ると、マスク、マスク・・・マーケットでは足許に等距離ステップの表示。みんな目だけで行き来するので誰だかよくわからない。同じに見えてしまう。別感覚の世界に迷い込んだようだ。
「目はもっと表情がある」と思っていたが、そうでもないことがよくわかった。顔半分をマスクでかくしていると、どうもその人の特徴がよくわからない。口とほほの筋肉の動きは、表情を作るのに効果的に意味があることをあらためて認識した。
マスクにはすっかり慣れたが、マスクを着用していると自分の感情や意見を人に伝えるのが億劫になる。「まぁいいか」とスルーすることが増えた。そうこうしているうちにそれが逆に楽になる。自分の感情や意見を説明するのには力がいる。人の話を聞くのには忍耐がいる。
マスクに慣れると、その「力」と「忍耐」が弱る。「まぁいいか」と行き着く先にあるのは横着だ。しかし、全てはコロナ感染症から我が身を守る。他人を守るため・・・。ということで、言い訳は用意されている。「横着」など何ほどのものか気にすることはない。と思うのだが・・・。
この状況下で命を守ることを一番にすることで失っているものはないかと考える日々だ。
子ども達はひたすら元気一杯。相変わらずの日常がうれしい。1月には1月の教育・保育がある。それらを削るわけにはいかない。やっぱりここでも言っておこう。「子どもの成長を止めるな」。
しかし、この状況下で通常のカリキュラムの実践には相当の努力と工夫がいる。保護者の協力も必要だ。昨年4月から積み重ねた努力と工夫は、協力を得て先生達をたくましく育ててくれたと自負している。何もしなければ「良し」とされる中で、何かをすることで身につく「力」は、何ものにも替え難い底力となって1月を迎えている。
子ども達は身近な大人を模範として、向上心に目覚める。私達には責任がある。教え、導き、守る責任と、見られている責任があるということだ。
そろそろ3月に向けて動き出さねばならない。呑気にコーヒーを飲んではいられない。特別な年であるだけに、特別なものにしなければ。貯えた「底力」を発揮する時が近付いている。(※)幸福な1年の締めくくりとは言えない。言えないが、意味のある記憶に残る結末としたい。
※今回の親子ミュージカルは、2019年、20年の総集編として上演する。昨年のじんろく組(現1年生)の親子も出演する予定だ。勇気あふれるダイナミックな作品にしたいと考えている。
2021/01/28