新年早々、「生成AIと言語化について考える」
「生成AI」で文章を作製するのは、特別なことではなくなってきた。むしろ、積極的に使用することで、自分の考えや自分の気持ちを相手に伝えることが容易になる、と推奨される。大学を含めて、学校教育でもそのスキルの研修に熱心だ。
「言語化する。」というワードもよく使われる。
「言ってくれなきゃ、わからないでしょう。」と相手に迫られるのは、恐怖でもあるのだが、「言わないこと」「言えないこと」は、今や許されない。何故なら、「生成AI」で処理すれば、「言語化」はいとも簡単で、それが即ち自分の言いたいことや、気持ちを代弁してくれることになる。社会はそれを求める。そのスキルの向上を促す。
しかし、「言語化」はスキルの問題であって、自分の表現行動とは異なる。
「生成AI」によって言語化された、自分や他者があちこちに散乱する。でもそこには作られた自分や他者がいるだけで、本物の自分や他者は見当たらない。
それはちょっと・・・。と嘆くのは、私ぐらいだろうか?
多くの人はその方が便利、簡単と割り切っている。無駄がなく、時間の節約にもなる。いわゆるコスパ、タイパの追求である。
「生成AI」は、上手に利用すればそれだけ余裕が生まれ、余分なことに煩わされないで、人生を豊かに生きることができる。
・・・とまあ、なんと有難い社会になりつつあるものだ。
一方で私は、カナカナ学習会で何度となく繰り返し次のように話した。
「見てわからんものは、聞いてもわからん。」
自分の考えや気持ちを「言語化」して相手に伝える。そのことを通して、相手はあなたを理解しようとする。くり返し、「言ってくれなきゃ、わからないでしょう。」と迫ってくる。言葉を、言語化を求めてくる。うまく言えないなら「生成AI」を使って「言語化」すればいいじゃないか。そうすれば、相手に自分自身を伝えることもできる。・・・・・とも教えてくれる。
そのことに対して、私は「聞いてもわからん。」と突き放す。それよりも「よく見る」(観察する)ことを求める。そして、「見てわからん奴は、言語化されたことを聞いてもわからん。」と喝破する。つまり、相手を見る(観察する)ことは、相手を聞くことに優先するというわけだ。
これは、「生成AI」に対抗しての話ではない。カナカナ学習会の目的のひとつである。子ども理解を考えるときの必然の帰結だ。
私は、12月のカナカナ学習会で皆さんにおはなしした。
乳児は言葉を持たない民族(?)。幼児は文字を知らない民族(?)と。
言語や文字はコミュニケーションの手段だが、私達の園にいる乳幼児、そして皆さんの家庭にいる幼な子は、言語や文字をコミュニケーションの手段とする人々ではない。
それでも不思議なことに、毎日の保育・教育や家庭生活の躾において、大人は子どもにいろいろなことを、教えることができる。子どもは大人に、自分の欲求や気持ちを伝えることができる。
この大人と子どもの関係性が成立している世界を、私は「非言語的コミュニケーション社会」と呼んだ。
はじめにもどる。「言語化」することはコミュニケーションの最終目標ではない。相手と共有、共感するための必須要素でもない。それは単にとりあえずの必要を満たしているにすぎない。
私達は言語化されない「非言語」の世界から出発して、やがて言語という手段を得て、コミュニケーションを発展させてきた。しかし、目の前にいる小さな子ども達を見てみよう。彼らのコミュニケーションの原点は、言語ではない。「感じる」ことだ。
全てのコミュニケーションは、この「感性」から始まる。ということは、この「感性の世界」を持たずして、自分の考えや気持ちを説明することは、とても困難だということだ。言語だけでは自分を相手に伝える、表現手段としては十分ではない。
自分の言葉でない人工的な言葉があふれている。とりあえず無難に言葉は獲得できる。しかし、本当の自分を伝えることができない。言葉を尽くしても、わかってもらいたい相手にわかってもらえない、もどかしさが残る。この先に見えてくるのは、「孤独」というワードだ。
便利で簡単に言語化できるツールを得ても、人は「孤独」という呪縛から逃れることができないというのは、大いなる皮肉というしかない。
勘違いをしている。もう一度言おう。「見てわからんものは、聞いてもわからん。」
相手をよく見る(観察する)ことを侮ってはいけない。全てはここから始まる。言語にごまかされてはいけない。「非言語的コミュニケーションの世界」こそが、本当に伝えたい、分かり合いたい答えを持っている。そして、子どもはその世界に生きている。
年の始めに、わが子をもう一度よく見てみよう。(愛しい気持ちを込めて・・・)子どもから学ぶなんて、究極のお洒落な作業ではないか・・・と私は思う。
2026/01/22





















