子どもの心がわかっていますか?
【叱られました】
私達のグループのひとつの園の出来事です。朝一番の登園時に、いきなり母親に叱られた。「仕事、家事、育児にこんなにがんばっているのに、まだこれ以上がんばれと言うんですか!!」「いや、そういうことではなくて・・・」と、それを聞いてあわてる先生。「子どもを産んだことのない若い先生に、母親の大変な気持ちなんてわからないでしょう!!」と、さらにピシャリ。言うことだけ言って、その母親は子どもを置いて、あわただしく園を出て行った。苦情を受けた若い先生は、事務所に入って涙ぐんでいる。園長が、慰め声をかけている。「だからやめておきなさいって言ったでしょう」と私。「でもやっぱり・・・」と園長。事の発端は、「やってみなければわからない」ということから続いている。
【親も歌う】
「音楽会」の行事でのことだ。各クラスの歌に楽器演奏、劇あそびを保護者に披露する。1年間の子どもの成長を見る、聞くことによって、あらためて子どもの育ちについて園と保護者が一体となって考えるという、良い機会になる。毎年、毎回、好評で、保護者もとても楽しみにしている「会」だ。その「音楽会」に、今回は「親の歌」もプログラムに入れたらどうだろうという意見が出た。子どもの舞台を見る、聞くだけでなく、親が逆に見られる側に立つと、もっと子どものことがよくわかるのではないか。子どもの気持ちに近づけるのではないか。たとえば、「あぁこんな風に会場が見えるんだ」「こんなに緊張するものなんだ」「子どもってがんばってるんだ」「やってみると意外に難しい」「自分も歌うと、見るのとはまた違ったうれしさがある」「やりきった感じがしてすがすがしい」など、新しい発見がある。子どものことがよくわかり、親もやってみることで感じたことから、親子のコミュニケーションもより豊かになるだろう。
また、おやの歌を聞くという機会は、子どもにとってもよい経験になる。うれしいだろう。親が歌ってくれる歌声は、子ども達の心にきっと心地よく響くに違いないとも思われた。
【ペーパーは配られた】
常日頃から、行事について、親が「見る側」子どもが「見られる側」のスタイルに、何となく違和感を感じていた先生達は、このアイディアに喜んだ。「それっていいよね」「立場が入れ替わると別の発見があるかもしれない」「子どものことを話すのに、いろんな角度ができるよね」「立っているだけでも精一杯がんばっている子どもの気持ちがわかってもらえるかもね」「練習を重ねて起こる子どもの変化や、終わったあとの達成感や充実感も共有できると思うよ」など、前向きの意見が、職員会議でも話された。そして、今回ははじめてということで、対象を5歳(年長組)の保護者に限り、早速「善は急げ」とばかりに、決められた曲名や、2回の練習日などの日程の書かれた案内のペーパーが配られた。冒頭の母親の苦情は、そのペーパーが配られた次の日の朝だった。
【タイミングがある】
「だからやめとけば・・・って言ったでしょう」と私は再度言う。「でも趣旨は間違ってないと思うんです」と、園長。「それはよくわかっている」と私ははっきりしない。「やることの意義はあると思います。職員会議でも十分に話し合いました。何より、保護者の子ども理解につながるだろうし・・・。」園長はねばる。「うん。君たちが職員会議で話し合ったことは、もっともなことだと思う。間違っていない。むしろ前向きに親と子の良い関係を築くことを考えて、取り組もうとしている意欲は、とても好ましい。親の就労支援だけでなく、子ども理解という意味での子育て支援もとても大切なことで、必要なことだとも思う。しかし、あの時『やめとけば・・・』と言ったのには理由があるんだよ」「新しい型をつくるには、その理由やねらいはもちろんだが、そのタイミング(時期)というものもある。『やめとけば・・・』と言ったのは、やろうとしていることを、否定したのではなく、時期尚早だということだ」「タイミングが悪かったということですか」園長は座りなおした。
【行事のイメージ】
「今年一年間を振り返ってみようよ。4月からこの3月まで、いくつかの大きな行事をやってきた。どの行事も、子ども達は生き生きし、親も楽しく盛り上がったものになった。しかし、子どもが演じる側、親がそれを見る側というスタイルは、いつも同じだった。固定化している。だから親は、園の行事というのはこういうものだと思っている。もし、そのスタイルを変えるのであれば、その意図やねらいをもっと日常的に、いろいろな機会をとらえて、親に発信しておく必要がある。少しずつ、少しずつ、固定化したものを取り除く工夫と努力が必要になる。そのプロセスの中で、行事に対するイメージがふくらんでくる。いくらよいことでも、突然ということになると、イメージはこわれてしまう。ふくらんで発展していくのと、いきなりこわれるのとでは、随分違うだろう。その意図やねらいを少しずつ発信していく工夫や努力は、今年は見られなかった。してこなかった。ということは、親は今までの行事のイメージのまま、今回の園からの提案『親も歌う』をいきなり配られたペーパーで読んだことになる。今までのイメージの続きであれば、『親も歌うことで、子どもを喜ばせる』『子どものために親も何かする』というように理解したのでしょう。それは、『子どものために親が犠牲になって何かさせられる』ということにもなる。そうなると、『こんなに毎日がんばっているのに、まだこれ以上何かしろっていうんですか!!』という厳しい言葉が返ってきても不思議ではない」「なるほど。ということは、時期が早かったということですか」「まぁそれよりも、4月からそういう行事に対するイメージ作りの種まきをしてこなかったということでしょう。先生達の提案は意味があっても、種まきをしていなければ、単なる『思いつき』でしかなくなってしまう」「子どものために良いと思われることも、その思いだけではだめなんですね」と園長の声は落ち着いてきている。「相手がいるからね。相手に受け皿が用意されていないと、通じない」
【反対多数】
しかし、もうすでに提案の用紙は出てしまっている。そのペーパーには、出演希望の有無の確認と、半分以上(20名)の賛成があれば実施する、としていた。そして、締切日に賛成者は、10名にとどまっていた。このままでは、未実施ということになる。その間、冒頭の母親ほどではないが、「子どもの舞台をゆっくり見るのが楽しみなのに、どうしてこんなことをするんですか」と怒りの抗議もいくつか入っていた。ところが、賛成してくれた保護者はとても熱心で、その中からピアノの伴奏を申し出てくれる人もあらわれた。2〜3日して、園長が問い合わせてきた。「職員を数名加えて、参加者9名とピアノ伴奏で、実施してはいけないでしょうか」「半数(20名)の賛成で実施するというのが約束だったんでしょう」「えぇ、でもみなさん本当に熱心に言って下さるので、少人数でもやってみればどうかと思うんです」「約束違反だよね。先生たちは何て言ってるの」「先生達も同じ意見です。まぁ中には、言われっぱなしでつぶれるのは悔しいから、何が何でもやってやろう・・・と強気の職員もいますが」「おいおい。喧嘩を仕掛けているわけじゃないからね」「はい、それはよくわかっています。私達が性急すぎて、保護者を混乱させているのだと思います」「いいですよ。君達が考えて、君達が決めればいい。もし、もっと叱られたなら、最後はちゃんと謝って収めてあげます。心配ありません」
【見る側、見られる側】
私は、基本的に子どもの行事において、見る側(保護者)見られる側(子ども)とい、固定的なスタイルをよしとしない。親も参加型の行事を心がけている。また、室内では子どもの舞台を、カメラ・ビデオで撮影することも認めない。カメラはフラッシュが邪魔になるし、立ったり座ったりも落ち着かない。最近は、ケイタイのカメラ機能で、軽々と撮れるようだが、いかにも軽い。真剣な子どもの舞台からして、もってのほかだと思う。ビデオは、最後列か両サイドで、皆さんの邪魔にならないところでなら認めることもある。多くの園の行事を見させていただくが、園によっては、保護者に公平にということで、プログラム順にそれぞれのクラスが一番よく見える真中の場所に、保護者が移動するというシステムをとっているところもあった。真中の席に保護者がクラスごとにごっそり入れ替わるので、とにかく騒々しく、落ち着かない。会場の空気が落ち着かないと、子ども達も動揺する。それでなくても、いつもと違う雰囲気に緊張してしまうものだ。できれば会場の空気は壊さないようにしてほしいと思った。時々、自分の子どもの出番だけ見て、会場を出ていく人もいる。「仕事があるから・・・」ということらしい。これは、勘違いをしていると思う。「子どもは見せ物ではない」子どもの成長を喜ぶというのは、もっと深い意味を持つ。そして、「どの子もわが子と同じように、愛おしく応援する」というのが子どもを持つ親としての心のありようだと思う。会場に集まっているのは、みんな子を持つ親である。その一点において、共有できるものが必ずあるはずだ。その一点において、協力し合えるはずだ。みんなで子どもを守って、子ども達が安心してリラックスして、子どもらしい歌声を聞かせてくれる。それを引き出す会場の空気をみんなで協力して作り出すことが大切だ。
【一瞬の輝き】
『子どもがわかるために、「一瞬の輝き」を一緒に経験する。それが、「わかった気になる」という落とし穴にはまらないで、本当の意味での子ども理解へと、近づくことになる」と以前書いた。しかし、「一緒に経験する」ということが、単純なことではないということは、わかっていただけたと思う。「子どもと一緒に経験する」には、日常の保育の中で、ひとりひとりの子どもに課題を持ち、何を目指しているかの目標をはっきりさせ、その上で、その意図やねらいをわかりやすく、丁寧に、機会を捉えて発信し、子どもだけでなく、取り巻く大人全てと意思の疎通を十分にやっておく必要がある。ここまで考えてきたように、「一瞬の輝き」は、「思いつき」や「たまたま」の一瞬ではないということだ。その輝きを得るために「子どもと一緒に経験する」ということを、情緒的な「お楽しみ」の世界や、親が犠牲になって子どもを喜ばせるということで捉えてはならない。その輝きは、より周到に配慮され、準備された中から、光り輝くものだ。
【結末は】
さて、「親も歌う」という音楽会は、一体どうなったのか?まず、賛成を申し出てくださった9名の保護者と、ピアノ伴奏の方、そして、数名の職員の混合チームで「親も歌う」プログラムは実施された。約束違反だが、集まった皆さんが熱心なので、実施しますと、アンケート結果を報告してからは、特に大きな苦情は入ってこなかった。そして、2回目の練習はとても楽しかったようで、好評だった。はじめは、様子がわからず探りながら集まったのだが、趣旨をもう一度丁寧に説明して、練習を始めると盛り上がった。やはり、みんなで集まって歌うというのは、いいものだ。しかも、集まった人達は、みんなその気になって来てくださっている。ワイワイガヤガヤと笑いもあふれて楽しく賑やかなものになった。練習日の次の日、その様子がメールなどでほかの保護者にも、あっという間に伝わった。そんな風だから、特に重ねての苦情にはならなかった。そして当日、決めていたわけではないが、出演する人たちは、それなりに服装も統一し、緊張した面持ちで、でも、本当にすばらしい心のこもった親の歌を披露してくれた。子ども達は、言われなくてもシーンとして、食い入るように親の舞台を見て、歌を聞いていた。普段、聞かなさそうな子も、口をポカンと空けて、カワイイ顔で一生懸命聞いていた。歌い終わって、ひな段を降りて戻っていく時、緊張から解放されたのか、それとも会場のあたたかい空気に感動されたのか、涙ぐんでいる親もいた。結果は成功だった。先生達も、「ヤッターヤッター」という喜び方ではなく、静かに、しみじみと「やって良かった」と終えることができた。これが、いろいろ大騒ぎの顛末だ。それから、最後にもう一つの顛末を付け加えておきたい。「音楽会」の次の日の朝、冒頭の苦情を聞いた若い先生に、例の厳しい言葉を投げつけた親がこう言った。「昨日はよかったよ。弟の時は、わたし歌うからね」若い先生が、どれくらい喜んだかは、想像してほしい。
2014/04/28