「キャラ弁」を考える
新聞の話。「内閣官房が『キャラ弁』を『女性応援ブログ』として、ツイッターで紹介したところ、批判が相次いだ」という。(6月26日付朝日)「キャラ弁」と読んで、ちょっと古いな〜という印象だが・・・。数年前に話題になった。子どもライブラリーでも、お弁当日に「キャラ弁」をよく見かけた。私は、「フーン」という感じ。時々「フーン、おいしそうだね。」と声をかけるが、言葉は軽い。(この軽さのせいか、子どもライブラリーでは「キャラ弁」は定着しなかった。)
保護者に聞くと、?子どもが喜ぶ。?苦手な食材も楽しんで食べてくれる。と返ってきた。子どものことを大切に思う親心だろう。時々かなり込み入ったデザインを見ることがある。「これはむつかしそうだ。作るのに時間もかかりそうだ。その努力に親心の大きさを想像する。」と書くと、最初のブログの反応ではないが、「母親へのプレッシャーだ」ということで叱られるのだろう。
まあ考えてみれば、白いごはんのおにぎりに「のり」を巻くのも昔からあるキャラ弁の一種と言えなくもない。真中に梅干しが一個半分かくれて、半分見えているのもオシャレと言われればそうも見える。ちょっとした工夫で、子どもが喜んで食べ、苦手な食材も食べれるようになるのであれば、それはそれでいいと思う。
しかし、新聞で読んだだけだが、これほど多くの反応が返ってくるというのは、他にどうも母親達には「言い分」がありそうだ。「氷山の一角」なのか「地雷をふんだ」ということなのか、いずれにしても社会現象と格上げ?されてしまうと、母親たちの素朴な願い?子どもが喜ぶ。?苦手な食材も食べてくれる。が、かすんでしまうのは残念だ。
私は、「キャラ弁」をすすめることはない。子どもは「何でも喜んで食べる」というのが私の考えだ。「イヤ、そんなことはない。実際、偏食が多くて、野菜嫌いの子どもが多くて、母親たちは困っている。」と、反論も知っている。子どもの偏食は、確かに多い。あきれるほど多い。でも、最初から偏食の子どもはまずいない。偏食は「つくられた」のだと思う。理由はいくつも考えられるが、5月の懇談会、6月のカナカナ学習会で、何度も話をした通りだ。要約すると、「味覚形成の失敗」と、「腹が減ったら何でも食べるという、食生活の環境づくりが整っていない」からだと思う。その時には、●偏食の見直しと☆ひと汗かくあそびの充実を説明した。=それらのことについては、改めて原稿にして、雑誌に掲載する=
話は古いが、私の子どもの頃は現在と違って、それほど豊かな食生活ではなかった。「味覚形成の失敗」を心配するほど白砂糖の甘い菓子も飲物もなかった。
夕方、あそび疲れて家へ帰ると、テーブルの上には殆ど子どもの苦手な、お野菜と煮物ばかりだった。子どもの頃は、それが物足りなかった。もっと強烈にガツンとくる食べ物が食べたかった。それで思わず、ためいきまじりによく言ったものだ。
「え〜今夜これだけ〜」母親はそれを台所で聞きながら涼しい顔で、いつも同じことを言いかえしていた。
「イヤだったら食べなくてよろしい。」これは困る。なにせ、あそびまくって腹が減ってる。結局、野菜だろうと芋だろうと、食べれる物は何でも食べたものだ。「腹が減る」というのは、こういうことだろう。選ぶ余裕、偏食できる余裕なんてなかったわけだ。最初にキャラ弁のことを書いた。多くの親が子どもにちょっとでも多くのものを喜んで食べてほしいという願いを込めているのだろう。それを否定することはない。
ただ、親であるならば、堂々と食事に関して、子どもにこう言いたいものだ。子どもがつべこべ言って偏食につながるような選び方をしようとした時は「イヤだったら食べなくてよろしい!!」。
子どもに「食べていただく」ためのテクニックは必要ないと思う。それよりも、きちんと生活環境を整えて、腹を空かした子どもをまっすぐに食事に向かわせるようにしたいと考える。
2015/07/03