「ほめる?」
【雪の中で】
年末の雪がチラチラする寒い日の午後のことです。2人の年老いたおばあさんが、手押し車を押しながら道端を歩いていました。丁度、高さ40cm程のチェーンが垂れ下がっている進入禁止の空き地の入り口まで来た時、ひとりのおばあさんが何と、そのチェーンを乗り越えて、空き地に入ろうとしているのが見えました。私は、すぐそばを車で通りながら「何をしているんだろう。転んだら危ないのに、わざわざチェーンをまたいで・・・」と気になったので、道路のそばに車を停めて、バックミラーで様子を伺うことにしました。持ち上がりにくい足を何とか持ち上げて、「やっとこせ」そのおばあさんは、チェーンをこえました。そして、空き地の中に入って、雪と風が舞う中で、あっちこっちを飛び回っていたビニールのゴミの空き袋を2つ拾うと、もどってきました。それから、再びチェーンをまたぐのがひと苦労。時間をかけて元の所に戻ると、手押し車のフタを開けて、そのビニールのゴミを中に片付けて、またゆっくりを2人で歩きはじめました。私は、顛末を見届けて、「なるほど、そういうことだったのか」と車を発進させました。そして、ハンドルを持ったまま考えていました。
【立派な行為】
「あのおばあさんの行為は、私から見ると(客観的)、ゴミを拾うという道徳的、倫理的の立派な行為と言えます。称賛に値する美しい行動です。しかし、いくら美しい言葉を並べても、どうもしっくりきません。それは、当のおばあさんが、あまりにも自然であたりまえのように振る舞っていたのが、目に焼きついていたからです。ご本人は、どのようなほめ言葉も期待されていなかったということです。そんなことを考えていると、「寒い日にわざわざゴミを拾って、当然のように知らん顔をして偉いなぁ」なんて思う、自分自身の方がうすっぺらく感じられるようになってきました。
道徳的、倫理的に立派な行為を、子ども達に教える立場ですが、それってどういうことなんだろうと、あらためて考えてみました。おそらく、どのような行為も、本当に大切なことは、その行為そのものが自己主張であり、自分の意志となっているということではないかと思います(主観的、主体的)。その主観、主体の中にこそ、真に称賛に値する美しい行動が見られるのではないかとも考えます。
【ほめて育てる】
少し話は変わりますが、「ほめて育てる」という保育方法があります。「ほめられるとうれしい」「ほめられるとやる気になる」ということです。「ほめる」というのは、前向きで気持ちのいい人間評価であることは、間違いありません。しかし、私は、そのことに積極的に汲みすることにはどうも抵抗があります。
以前、「ほめて育てる保育」を実践している園の先生から、次のようなひとことを聞いたことがあります。
「赤西先生、毎日朝から子どものほめるところを探すのは、けっこう大変ですよ。疲れました。」これは本音でしょう。客観的な評価を求めて、子ども達は「ほめられることをしようとする」「ほめられないことをしている子どもの告げ口をする」こんなことになっていくと、本末転倒です。
最初に書いたおばあさんは、明らかに、何らかの「ほめ言葉」を求めてゴミを拾ったわけではありません。また、どのような「ほめ言葉」も似合わないと思います。それは、自己主張であり、自分の意志の現れだからです。ということは、立派な行い(あいさつをしましょう。みんなと仲良くしましょう。困った人を助けましょう。そして、ゴミを捨てないようにゴミは拾いましょう・・・)を、客観的な評価の対象として教えるのは、違うということになります。ここに「ほめて育てる保育」の限界と矛盾を感じます。
誰かのほめ言葉を求めるのではない、自己主張、自分の意思の表現としての「行為」は、どのように子どもに教えたらいいのでしょう?
また宿題が増えました。皆さんは、どう思われますか?どうぞ一緒に考えてみてください。
2015/01/19