野生の鳥を食らう
昨年12月の夜のクリスマス会のストーリーテーリングは、「悲しすぎる」と不評の声をいただいた。(私なりに反芻しながら余分を切り取っていくと、「悲しすぎる」に着地した。)
子ども達には本物の豊かな感情体験が求められる。豊かであるためには、物語の脚色を取り除いた「必然」という納得感が大切だ。
その場の空気に合わせて「慰め・同情」したり、「キャーカワイイ」と情緒的に盛り上がるのは、ちょっと違うと考える。
夜のクリスマス会は、ろうそくが灯り、物語を語る時、私と子どもとの距離はとても近い。子ども達は、微動だにせず、息を呑んで最後まで聞いてくれた。話し終わって立ち上がる時に、数人の子どもからフゥーっと息を吐く音が聞こえた。子ども達が何を聞いたのか? 何を感じたのか? を確かめる術はない。いや確かめるのは野暮だろう。私は、読書感想文が嫌いだ。ただ、それでもきちんと「必然」が届くようにとは願う。また、この点において努力は惜しまない。
年末に予約していた本が一気に届いた。しかし、この冬の「積読(つんどく)」解消は年明けも全くすすまなかった。夏と違って、冬は雑念と誘惑が多い。
1月2日は、夜明けを待って、山の中に居た。池は、周辺が氷っている。あたり一面霜で真っ白な中をザクザクと踏んで歩く。土手にはいつくばるようにして登り、獲物を探す。1月の鴨(かも)は勘が鋭い。ちょっとした音、人の気配を感じ取るだけで、すーっと水面を遠くに離れてしまう。一斉に飛び立つ鴨を、どこかに当たるだろうと横着な期待でもって撃つと、大抵は外れる。(そんなうまい話はない。うまい話に惑わされず、きちんとねらいを定めることが大切だ。これは「必然」。)
「二兎を追う者は一兎をも得ず」とは、真理だと思う。人間も、仕事も、相手をリスペクトして、謙虚に全力で向き合うことが、真の経験につながる。
撃ち落とした鴨は、大きくて美しい。そしてあたたかい。すぐにナイフで腹を開けて腸を取り出す。陽が登り9時近くになると、鴨は川へ食事に行く。池は静かになる。
そこで、山の端の竹やぶを目指して車を走らせる。小さな川、竹やぶ、枯草の茂み。となると、雉(きじ)のいる可能性が高い。犬を放つ。犬は雉の嗅いを嗅ぎつけると、マーキングして止まる。キジはとても慎重。忍耐強い。なかなかその姿を見せない。根比べとなる。キジは空中高くは飛ばない。滑空するように羽を広げて、優雅に飛ぶ。
その時、丁度私の頭の上を飛行した。あわてる。びっくりする。美しさに見惚れる・・・ などと言い訳を並べて、獲り逃してしまった。飛び込んだやぶに走る、走る。しかし、そのやぶを囲んでも、大抵はそこにはもういない。キジは足が速い。地面を蹴って走る。そのスピードは速い。追いつけない。東京近郊に武蔵野という地域がある。その周辺の植木畑に「コジュケイ」という野性の鳥がいる。これもまた飛ぶよりも木々の間をとても素早く走り回るのが得意。追いかけても木の枝に頭をぶつけて、うずくまるのがオチだ。・・・これは私が経験ズミ。そういう意味では、大きさこそ違っていても、キジとコジュケイは同じ空気感を漂わせている。
キジは雄しか獲ることはできない。オスの羽はとても美しい。表現できない複雑な色が重なって光り輝いている。尾羽は長く、とても誇らしげだ。
夕方近くになって、山から降りてくる。街は正月の活気にあふれていて、車も多い。別世界のようだ。私は汚れたジムニーに、仕留めた鴨と雉を載せて帰る。
すぐに2人の孫と庭で羽をムシる。まだあたたかい鳥の羽は、小さな力で簡単に抜くことができる。首と羽と足先を落として、腹に手をつっこんで内臓をひっぱり出す。心臓、肝臓、そしてピカピカ銀色の砂ずり。1日冷蔵にねかせて、2日後に丸焼きにしていただく。内臓は切り開いて、オリーブ油で炒めて、ワインの共となる。鴨も雉も脂胞は全くない。野性の鳥は身が引き締まっている。しかし固くはない。鴨はうすい赤紫肉色でレバーの香りがする。キジの足はすばらしく、食べる時の歯ごたえは半端ではない。大人も子どもも両手で骨をちぎって、しゃぶりつくようにして食べる。後に残るのは、バラバラになった骨だけ。(前回はこの骨で出汁を取って次の日に麺を食べた。)
食べ終わって、ストーリーテーリングの「必然」を思い出した。鴨や雉を獲得するのは、「偶然」が必要だ。「絶対確実」とか「ハズレなし」は通用しない。けっこう山の中では「偶然」に頼っている。計算してというより偶然出会ったという方が多いかもしれない。
しかし、その後からは「必然」の世界になる。ということは、「必然」は自らの手で生み出すことなのかもしれないと思う。与えられたチャンスを「必然」に変えていく。そのことの積み重ねが豊かな体験につながっていくのだろうと想像できる。
=なるほど、ワインと一緒に心臓を食べ、骨をバラバラにして、最後までいただくのは 「必然」を生み出すための儀式のようなものなのか・・・。と勝手に納得した。=
夜のクリスマス会では、余分を削り取ると「悲しすぎる」物語となった。しかし、「必然」の納得感は残った。それを受け止めることのできる子ども達に育てたい。
・・・とウットリしている暇はない。今年度は親子ミュージカルの公演が待っている。気合を入れ直して、まずは物語を創り出さねばならない。時間は待ってくれない。冬は誘惑が多くて・・・。
2025/01/20